洋紀Hiromichiの部屋

洋紀Hiromichiの部屋は、自作曲と和声など音楽通信講座、そして英語のサイトです。

自作曲「Hoping the Dream Becomes a Reality!」

自作曲のうち、「Hoping the Dream Becomes a Reality!」(夢が叶うことを願って)というものがあります。

アルトサックスとピアノ伴奏の曲で、私の自作曲ラインナップの中ではポップな部類で、かしこまらずにけっこうくつろいで聞ける曲と思います。
今回はこの曲のご紹介です。

スポンサードリンク

30年ほど前に作曲し、もともとプロのサックス奏者へ献じていますが、今回はハーモニカを歌のパートにあててアップしてみました。

実はこの曲、私の中ではこれまでの自分の英語学習と深い関係があります。

私の場合、TOEIC900点を超え、その後英検1級に合格するあたりまでは電子辞書ではなく紙の辞書ばかり使っていました。
電子辞書最盛期の当節ですが、「使い慣れているものを使い続けていく」のも手だと思い、実際そのように使いこなしていました。
ごらんのように知りたい情報が目立つようにとよくマーカーを辞書の中に使い、果てはマーカーのないページがないほどになりましたが、こういうことができるのも紙の辞書ならではだろうと感じます。


曲のご紹介と沖縄旅行の写真とともに、そのあたりのいきさつをお伝えしてみたいと思います。

Hoping the Dream Becomes a Reality!と沖縄旅行と英語

曲の構想はずいぶん前、それこそおそらく今から30年くらい、あるいはそれ以上前にさかのぼると思います。
最初のメロディの冒頭部分が何とナシにつと思いついたのがきっかけで、これにつなげてイメージ的にホンワカした曲ができればいいな、みたいに考えていました。

それが実際に具体的な曲として脳裏ででき上がっていったのは、やはり当時ようやく全盛を迎え始めていたパソコンの普及、ひいてはそれとともに発達した作曲ソフトのお陰です。

当時まだまださほどに大きな曲も作ったことがありませんでしたし、そういうチカラもゼロ状態だった私は、そんな自分の能力の範囲内でできる作曲、それを考えていましたし、今はもううろ覚えですがそういうバックグラウンドからこの曲の構想もできあがったと思います。

繰り返しますが、自分にとってこの沖縄旅行とこの曲とは、英語の学習とリンクする形で切っても切れないほどの関係があります。
その意味で、他の私の自作曲の中でも特筆モノといえるのかも知れません。

ということで、前置きが長くなりましたが、曲のご紹介です。著作権はいつもの通りついて回っていてすみませんが、よかったらご試聴ください。

後付けで曲の説明しますと、アルトサックスの音色にはハーモニカを持ってきています。
作曲ソフトだとアルトサックスの音色がどうもうまくなく、ハーモニカの方がなんだか映(ば)える感じだったのでトライしてみました。

大まかでは小三部形式、A-B-Aをとり、それでツーコーラスを形成していますが、そのツーコーラスが二組続きます。
曲前半の一組目はハーモニカがメロディを持ちますが、後半の二組目ではピアノ伴奏の最上声部がそれを担当し、ハーモニカはその主メロディに対して対旋律としておかれている形です。

1995年の自転車キャンピング旅行で初めて沖縄の土を踏む

上で前振りしたとおり、この「Hoping the Dream Becomes a Reality!」と、英語の学習そして沖縄との関係をお伝えしてみます。

短い期間でしたが私は勤めていたさる会社を退職後、思い切って初めての自転車キャンピング旅行に挑みました。
95年9月頃のことですが、旅行ルートは地元の千葉県から出発して日本最南端の沖縄。
そこまで陸路、海路を駆使して二ヶ月ほどかけて旅し、有人島最南端の波照間島まで達しています。
ほとんどはテントを張っての野宿、その合間に当時まだまだノーマルだったユースホステルを利用しての長期自転車旅行でした。

95年秋の自転車キャンピング旅行で。
八重山諸島の一つ、有人島で最南端とされる「波照間島(はてるまじま)」を訪れたときの写真です。真冬でも半袖Tシャツ一枚で過ごせる暖かさでした。
日付は12月某日。


沖縄を目的地に選んだのは、一つには以前継続していた以前に資格試験で一緒に学習していた沖縄出身の友人に会うことを考えていたためです。

そして紆余曲折ありましたが、無事になんとか沖縄へ到着。九州・鹿児島からはずっと船旅でしたが、その間たまたま同室に居合わせた東京出身のバイク旅の男性(大学生)と意気投合し、後にさらに旅を続けて行き着いた石垣島・米原キャンプ場で思わぬ再会を遂げています。

沖縄本島に到着して那覇市内にある「沖縄国際ユースホステル」に連泊した後、本島中部に住む友人の自宅に一泊させてもらい、その後は先述の石垣島、そして勢いづいて沖縄でも最南端の波照間島、最西端の与那国島なども訪れることができました。もちろん基本的には野宿の連続です。

沖縄本島・コザ市(現沖縄市)の近くにある友人宅で。彼も今は小学校の教頭先生で、二児の父です。

自分にとっては初の自転車キャンピング旅行、しかもこれほどに何日も野宿などを重ねて自転車で旅したことがなかったこともあって、この沖縄旅行は自分自身の意識にも大きなインパクトがあったと思います。

正直会社勤めしていた頃までは、自分にはなんの力もない、一人では何もできないという一種の無力感を感じていました。
ですがこの自転車旅行によって沖縄の美しい自然への感動とともに、それ以上にこうして一人旅を完遂したことで、自分の中に自信や可能性を感じることができたように思いましたし、それが後の英語学習や一連の自作曲の作曲活動にもつながっていると思います。
だから、よくいう「かわいい子には旅をさせよ」というのは確かに真理な側面があるように今でも感じます。

そして、帰宅後には程なくして英語の勉強を始めながら塾のパート講師を手がける一方、当時イノベーションのただ中にあったパソコンのお陰で、作曲ソフトを駆って自作曲を作り始めています。

スポンサードリンク

TOEICで900点を超えるまで絶対に再び沖縄へ行かない

そういうわけで30代半ばにして初めて自転車旅行で沖縄まで到達できた後、それまではなんとなしに感じていた英語への好奇心が積極的な学習意欲へと高まり、そして本格的に余暇を利用して英語の勉強を始めました。

なお、もともと私自身、それほどに語学を始めとする頭脳労働に適した人間ではないようで、変なハナシ、さる実力派とされる「霊能者」という種類の人からは
「貴方は机に向かって仕事をするのには向かない人間だ」
とまでいわれたこともあります。
信じるか信じないかのハナシですが、実際をみれば学業の成果も大したものではありません。このあたりのことはKindleの拙著「国産ニッポン英語それでもTOEIC900点!」で説明しています。
ただそれでも、多少なりとも頭脳労働の方面で何か「手に職」を持った方が安心はできます。
そう考えた場合、自分にとって学校時代の拙い学業に目を向ければ、わずかにまだ興味が残っている科目は英語。
これがそもそも英語学習再スタートへの入り口になっていました。
振り返ってみると、あの「霊能者(女性)」の見立てはおそらく正しいのだろうと思います。
けれどそれを心底から信じて英語の学習を捨てていたとしたら、その後私はTOEIC900点も英検1級も取れていなかったし、語学で収入も得ることができなかった。
これだけは確信を持って言えるのではないか?少なくとも今でもそのように思われるのです。

自転車旅行から帰宅して始めた英語は、大学時代以後ほとんどタッチしていなかった学習再スタートとはいえます。
だから当時のような年齢で語学の学習に再チャレンジなど無謀というしかなかったはずですが、それでも数ヶ月後、初めて挑んだ英検2級がワンパス。
高校や大学時代では絶対に受からないと思っていた資格だけに、得意満面になりました。

英検2級の合格証書です。
仕事の合間を縫っての英語学習でしたが、数ヶ月のガリ勉でなんとか2級を取れました。
仕事疲れで毎回勉強机に突っ伏して寝落ちし、目が覚めるとよだれが机に垂れていたのを思い出します爆


ですが所詮は英検2級。その程度ではTOEICを受けても大した得点にはなりませんし、それ以前にTOEICという試験自体も自分にとってはまだまだ「遠い世界」のようなイメージしかなく、本格的に受験に向けて勉強するような意気込みこそありませんでした。
加えて同時に受験した英検準1級は不合格判定がBです。
英語学習再スタートを切った最初の頃は少なくとも準1級を取れてから沖縄へ再び行こうとしていた目論見もあったため、この不合格判定はその分大いに現実を突きつけられました。

その後しゃかりきに勉強を重ねてTOEICも受験し出し、微々たる伸長ながら、英語力は伸びていきました。
その結果としてまずはという目標を

英検準1級を取得すること。
TOEIC900点を超えること。

と、自分に課しています。
そして、これらが成就したらその時にあらためて沖縄再訪問。
つまり
「TOEICで900点を超えることができたらもう一度沖縄に行こう」
と決めていました。

ですがこれはもう一つ、重要な意味がウラにありました。
それは結局
TOEICで900点を超えない間は、絶対に再び沖縄へ行かない
ということです。
そして、結果として確かにその通りになりました。

準1級合格で英語の「取り柄」に手応え?

少し英語の学習とその学力の伸長について話してみます。
まず仕事をしながらの学習でありながら、ワンパスで97年初頭に英検2級に合格したのは確かに自分にとって快挙でありラッキーでした。

ですが、その次の準1級にはかなり手を焼いています。
2級を受かった後に1級と準1級をダブル受験していましたが、その頃の自分にとってはどちらも恐ろしいほどのレベルでした。

そして、2級の勉強の頃よりも遙かに膨大な学習時間をかけ続け、苦しい思いでようやく合格できたのが4年後、2001年秋です。

上が英検準1級の合格証書、下は二次試験の合格通知です。筆記の一次をギリ合格した後、二次は一度失敗し、二度目でこの合格通知を受け取りました。
後に英検も1級まで取りましたが、むしろ準1級取得の方が自分の中では大きな意味を持つように思っています。
また、勉強のハードさも準1級の方が「何を勉強したらよいのか」という意味でよく迷いましたし、加えてその後の自分の職業進路を画するという意味も含めて、かなり大きな存在意義があったと今では思います。


しかしながら準1級に合格できたことは、自分にとっては英語の学習がどうやら曲がりなりに生活に生かせるかも、というレベルになってきてくれているという証明でもありました。

私がここまで英語の学習に没入することになった理由は、上のとおり自転車旅行がきっかけでもあったと思いますが、もう一つには上のオレンジ枠でも語ってみたとおり、

何か一つでも身の立つような「取り柄」をつくっておくべき

という、一種切羽詰まった崖っぷちのような心境が自分の中にあったようです。
ですがとにかくは、時間がかかりましたが準1級に合格したことで、自分のような人間でもやればできる、そういう自信が形になってくれた感じでした。

TOEICスコアに大きな赤信号?

その英検の学習ばかりを準1級取得あたりまではもっぱらとしていましたが、準1級取得後は、それまで適当で済ませていたTOEICの学習に専念するようになっています。

TOEICの点数も準1級を取得した時点で大体660点ほどのスコアを獲得できていて、後は順調に点数を伸ばせばなんとかいけるかな、とも思えました。
実際、その後は700点台、800点台と、受験回数を重ねるごとに点数は伸びたのです。

ところが、私のKindle本「国産ニッポン英語それでもTOEIC900点!その2」の中でも語ってみていますが、880点までスコアを伸ばした時点で、それ以後まったく点が伸びなかった時期がありました。

その間なんと丸々6年。
何をどうやって勉強しても、逆にかえってスコアが下がる様なケースも出てきたりで、にっちもさっちもいきませんでした。
その6年間というもの、毎回大体850点から870点あたりをうろうろするばかりで、TOEICのスコアがそんな点で返ってくるたび、沖縄の再訪が夢の夢に遠のく感じでした。


そして、こういう際に浮上するのは、逆に自分への言い訳とあきらめですね。
つまり
「900点取れていなくても、考えてみると英語学習の当初、2級が受かった後、これだけは取ろうと目的にしていた英検準1級は取れているじゃないか」
「900点行かずとも、TOEICスコアの最高レベル860点はほぼ毎回キープしているから、もういいんじゃないか?」
という、いわば悪魔のささやきです。

こういう妥協にも一応は一理あると思いましたし、ここまで勉強を頑張って、その結果普通の日本人を越える語学力を得られたんだから確かにもう十分だったのかも知れません。
だからこの頃は一番キツい、成績でもメンタルでも赤信号の時期でした。

その一方でこの頃になると、家族や周囲の目からは私の英語学習が相当に冷ややかに見られていたようでもあります。
今だから話しますと、ある親戚の叔母などは
「そんな勉強、今すぐやめろ」
と、本気になって毒づいてきたりしていました。
これはこれで確かに正当な根拠が有るのかも知れません。というか、確かにあったはずです。

ですが、私はそれでも学習をやめませんでした。

自己サイト『和声教室オンザウェブ』のPhotoページ(https://0ngakukan.web.fc2.com/indexofpictures.html)にある、95年秋に沖縄を訪れた時の写真です。自転車旅行だったため、毎日数時間自転車をこいでいたため、我ながら体がかなりしまっていました爆 この写真に付けているキャプションは、実はTOEICが900点を超える前の文章になっています。以下そのままを貼り付けておきます。
「本殿の前で記念撮影。この後再びここに立つのはいつになるだろうか、この写真を見るたびそんなことが頭に浮かびます。」


正直心が折れそうなときもありましたが、そういうときには別に神仏にではなく、
「もう祈るしかない」
という心境でしたし、そういう自分の心を陰で支えてくれていた存在があります。
それがこの「Hoping the Dream Becomes a Reality!」だったようです。

その結果。
拙著Kindle本「国産ニッポン英語それでもTOEIC900点!その2」で触れていますが、とうとうある時期に900点突破を実現。
2011年春の受験でのことでした。
延々と年月をかけてそれが実現したのは2011年。
一度も外国に行った事がなくてもガリ勉のお陰で点が取れたわけですが、その間心が折れそうな時もあって、そんな時は変なハナシ自分で作ったこの曲を聞いて助けてもらっています。

確か890点を取得した、その次の回の受験でこの910点が取れたと記憶しています。
全くの突然の900点台で、嬉しさよりもむしろ「意外」でした。

2012年に沖縄再訪。往路の機上でグッとくるものが

それ以後、何度も900点台を取ることができています。

そして、貯金がうまい具合に貯まった頃合いを見計らって、2012年の春先に待望の沖縄再訪が実現しています。
この再訪では前回の様に自転車旅行のような日にちを費やす方法は採れず、飛行機で一気に沖縄入りとなりました。

ちなみに、飛行機に初めて搭乗したのもこれが最初です。
沖縄の友人との再会とともに、沖縄で目に映るもの何もかもが新鮮でキラキラしていたのが印象的でした。

2012年3月22日、首里城にて。首里城もこの頃は健在でした。先頃に焼失してしまったのが惜しまれますね。

上の95年の自転車旅行で首里城を訪れた写真と比較すると、肥満がハッキリしています爆。右肘の湿布は確か学習塾での書き物作業のやり過ぎで痛めたものですね。


これを機に、沖縄には何度も足を運び、自転車旅行では行ききれなかった沖縄の離島や場所を訪れています。
また、この後も英語の学習は継続し、2014年に英検は1級を取得しています。
ですがむしろ準1級の方が、自分にとっては職業的な進路についてエポックメーキングになった、そういう意味で大きいと今でも感じています。

こういう苦い経験を好んですべきではないでしょうし、本当にもっと楽に済ませる方法が有ったのかも知れません。
ですが苦い時代を苦い年月をかけて経験するから、やがてまぶしいほどの達成感が味わえるものでもあろうと思います。

沖縄再訪の機上、デジカメで動画を撮ってナレーションを入れている最中、やはり胸にグッとくるものがあって言葉に詰まったことがありますが、この「Hoping the Dream Becomes a Reality!」は、今でもその時の自分の心情と重なっていると感じます。

スポンサードリンク
Return Top