洋紀Hiromichiの部屋

洋紀Hiromichiの部屋は、自作曲と和声など音楽通信講座、そして英語のサイトです。

独学の功罪-苦しみも大きいが得るものも小さくない

大学(普通課程かつ4大)に在学中に親に内緒で音楽の勉強を始め、それが高じた形になって結局フーガの作曲まで学習しました。

ですが元々音大に在学できたわけではないので、ひとまず専門家に師事したとはいえども、教科の進捗度とか種類には特にそのバランスの取り方に四苦八苦した経験があります。

その極端なものの一つは対位法の実習でした。
結論からはじめに言ってしまいますが、和声学もそうですが、対位法はやっぱり独学ではすませられない。
一つの固定化されたような言い方ですが、確かにこれは当たっているかもしれません。
今回は私の実体験を踏まえた上で、それを力説してみたいです。

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やってはいけない(?)対位法の独学だが得るものもある?

最初に一言でお伝えしたいこととして、対位法の独習作業というのははたして可能なのか?

可能だとは思います。
けれども、限りなく学習作業が広がってしまうというのが私の実体験上での結論です。
なにしろ対位法は現在、テキストも少なく、また異なるテキストごとに規則事項も大きく異なることが多くなります。

ある音楽表現がこっちのテキストでは許されている、推奨されているかと思えば、別なテキストでは「冗談はよせ」レベルのド禁止状態。
だから独学で対位法を勉強しようとすればまずテキスト選びに難渋しますし、その後でまた実習作業の量や判断基準に迷うことになります。

そして理論もさることながら、実習作業を真面目にたっぷり行おうとすれば、冗談抜きで無限大の量になります。
私は実際、これを経験してたっぷりと「泥沼」にはまり込みました。
この辺、やってみれば「体」でわかりますが、いくら実習してもまったく先の見えないような毎日が続きます。

ということで、私が最初にとった対位法の独学は、絶対にほめられるものではありません。 
要するに、私のような学習方法はダメ!やらないでください!、ということになります爆

ただ、それでも実際、対位法を独学でやり続けるとどうなるか?
これは今「やっちゃダメ」とガチディスりした後で言うのもナンですが、得るものが全くないわけではない。
そう感じています。

それどころか、むしろ考えようによっては
自分の音楽経験にとって、大変に貴重なものをもたらしてくれた!
とさえ言えるのかもしれません。
あくまでも自分の失敗を負け惜しみで言っている、そう言われるのを覚悟し、かつ自分でも部分的には認識しての発言です。


今回はそういうわけで、独学で対位法という音楽理論を学習し、それこそ無限とも言えるような実習作業をし続けた、「私自身の泣き笑い実体験」は、以下のようなものです。

独学で対位法「ガイコツ」に挑むが実習キツ過ぎ!終いには「祈り」の気分に

対位法の実習を開始したのは確か音友「和声-理論と実習」の第3巻を偶成和音の課程に入ったあたりでした。

ですが音大の作曲専攻の方ならご存じのとおり、というか私自身は音大出身ではないので推測にとどまらざるを得ませんが、みっしりと本格的な対位法を学ぼうとすると、その理論の理解とともに膨大な実習が伴い、この結果非常に長い学習時間、そして努力と忍耐が必要になります。

対位法の実習というのは大抵が類的対位法という、対旋律のリズムごとに異なる段階的な実習課程を設定され、二声の一対一の最も簡単なものから始まって、完全につぶしていくとすると十数通りもの段階を経過していくはずです。

そしてある段階が終わるごとに、基本的には徐々に上の段階へと移行して困難さを増しつつ、おおよそ最終的には四声の自由対旋律まで行き着く。
他にも5声以上の「多声対位法」や「転回可能対位法」、あるいは「二重合唱」という学習過程も含むことがありますが、対位法の学習はひとまず4声までというのが通例のパターンだと思います。
譜面
しかしながら、その最初の段階の二声の貧弱な響きと今まで和声学でつきあってきた四声体、非和声音やら反復進行、偶成和音の豊かな響きとのあまりのギャップにやはり戸惑わずにはおれませんでした。

その当時対位法については私はまだ専門家に付いていたのではなく独学の状態で、しばらくしてから「危険」を感じて授業を受けるようにはなりましたが、その間の約一年あまりは対位法との格闘であったことを記憶してます。

全音符同士の一対一の二声の、いわば「ガイコツ」のような響きの中にどれほどの音楽的な意味があるのかを誰に問いかけるでもなく、自分一人で格闘を続け、考えねばなりませんでした。

その一年間の間では、課題作成、つまり定旋律対する対旋律の付加、という単純な作業の中で確かに過酷な苦しみだったと回想します。

形而上的な意味の存在するかのような瞬間もないではないとは思いましたが、もとより実習の上での創作は決してその上を行くようなものではないわけです。

だが私は執念と片意地をごちゃ混ぜにしてその「ガイコツ」から絶対により多くのものを得ようと努力し、暇さえ有れば五線に対旋律を書き付けて実習に明け暮れ、それが終いには結局二声の一対一のみで一万回の実習回数になってしまいました。

後にも先にも、このときの独学の二声一対一の学習が一番きつかった記憶があります。
いくら実習で対旋律をつけても、何が何だかわからない、全く先が見えなかったのです。

まさしく迷路であり、どこまで行けば何かの突破口がつかめるのか、ほとんど祈りの気分でした。

 

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対位法の独学の苦しみの中で、自分の道を探り出した?

当時、学外の一般の人たちに学習機会の門戸を開いていた東京、後楽園近くの「S美」につてをとり、そこのT内先生の元に通い始めるまでの間、他の二声の各類と三声、それから四声の途中まで手探りの独学状態で進めてみました。

ピアノを習い始めた頃から師事していて、そんな私の窮状(?)を見ていたM尾先生が私を不憫に思ってか(?)(^^;)同先生を紹介してくれたわけです。

それから後は比較的楽に実習できたのですが、後にも先にも作曲の勉強の中であの独学の対位法実習は最も手応えがあったと思います。

これは決して負け惜しみとかでいうのではなく、こうした苦難を超えてきたために、自分の中に何かが残っていた、という事実を自分なりに客観的に見直してみた結果です。

何よりも、教科書通りにやっていさえすれば、何もかもが上手くいくわけではない、それどころか、時には自分でなにがしかの道や進路を切り開く必要がある。

そのような経験を片鱗として受け止めるきっかけになったと思われるからです。

最もきついからこそ収穫も多かった対位法の独習?オススメはできませんW

確かに苦しいと言えばその時が一番苦しいものでしたが、面白いものでそれは今となると後にも先にも最も収穫が多かった時間といえるようです。

たとえば当ブログの姉妹サイト「和声教室オンザウェブ」で開講中の対位法コースに付記したような自分なりのハ音譜表の問題と解釈、そしてその方針も、この苦痛の中で見いだした結論の一つになります。

また同時に、対旋律のメロディの良否の判断を他人や禁則任せにすることなくあくまで自分の感性のみに頼って探求すべき姿勢の堅持があります。

和声的効果と対位法的効果との相互バランスの見極め等々、これらを単に禁則事項やカリキュラムの中での約束事だというだけでなく、自分の耳でじっくり聞いて
「何がおかしい?」
「何がまずいから禁則なのか?」
みたいに、自問自答しながらの、本当に手探りでした。


ですが、繰り返しになりますが今になって振り返ればなかなか吟味に値する要素があるようです。
(素直に言えば、この辺り、少々負け惜しみが混じっておりますが笑)。

ただしそうは言っても、もちろんこれは決して安全な学習態様ではありません。
この辺、繰り返しておきます。

一つには、初学者が今所持している自分の感性のみに頼ろうとすれば必ず落とし穴にはまりこむであろう事は誰の目にも明らかです。

私の場合は元々才能に恵まれたなどということは無いわけで、本当に、単に運良く周囲の人々に助けられていたということになります。
ピアノ
作曲の勉強をしようとされておられる方々は、まさか私のようなやり方はされないと思いますが、独学することが貴重であるとともに穴も大きい。
これは論を待たないほどに明らかと言えるでしょう。

その一方で、既成のアカデミックな学習課程に乗っかることは独学のように一歩一歩自分の感性と頭で考えて泥濘に道を刻むような努力を要求することはないわけです。

なので一概には言えませんが、ある意味安直で楽な面はあるかもしれません。

もちろん両者に同様の成果を期待することもかなり疑問です。

そしてまた、アカデミックな学習環境は作曲の実習全般の進捗バランスを考えるときなど、独りよがりの欠陥が著しい場合には安全であり、その効果は絶大だと思います。

半分自己宣伝になってしまいますが、クラシックの作曲のようなセンシティブな作業や趣味で有れば、独学を初めて根気よく続ける、それ自体は最低限の見方として、ご自身の情熱や努力、そして忍耐を示すバロメーターとも言えるかもしれません。

ですがチャンスがあれば独学にとどめず、そういった独学の長所を生かしつつ専門家について既成の学習課程を経験すれば作曲の面白さをより十二分に堪能できるのではないかと思います。

(旧サイト「hiromichiの部屋」より移植・修正)

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