前にアップした「春風」ですが、ピアノ伴奏、フルート独奏の形になっていました。
今回これを少し作り直し、タイトルの通り「ヴァイオリンとヴィオラ」に独奏部分を直してみています。
というか、多分フルート二本でも行けると思いますが、前回の「春風」がフルート独奏の音色だったので、それとちょっと変えてみようとしたわけですね♪
それをMP3録音したものを今回アップしてみましたが、今回これをご紹介いたします。
曲のきっかけになったのは東京郊外の散策
前回の「春風」の記事では、この曲の構想のきっかけとなった20代のころの東京郊外散策の写真を一緒にご紹介しました。
実はそれからおよそ20年近く経った後年、同じ散策ルートをたどって歩いたことがあります。
その写真もちょっとアップしてみました。
前回アップしたのは銀塩フィルムによるコンパクトカメラで、その写真をスキャナ取りしてアップしていたため、経年劣化と言いますか、セピア色に写真がくすんでいます。
自分にとっては年月の経過を感じさせる写真で、ある意味宝のようなものかも知れません。
それに対してこちらの記事でご紹介する写真は、コンデジによるもののため、そういう経年劣化もなくなり、あらためて月日の変遷が見られると思います。
曲の紹介【「春風」変ホ長調 ヴァイオリン、ヴィオラとピアノのための】
その前に、まず曲の方からご紹介してみます。
なお、伴奏は今回、チェンバロにしてみています。
よろしかったらご試聴ください。
※なお、著作権については従来通りで、放棄はしていませんのでご了承ください。
能書きとして、恐縮ですが前作からの作り替え方をちょっと述べてみます。
作り替え方はカンタンで、前回一本だったソロ楽器、つまりフルートですが、これをそのまま最高声部としながら、その下にもう一本、ほぼ独立したメロディを持つソロ楽器を付け加えた、ということになります。
ただ、ややこしいのはもともとあったフルートのメロディをほとんど動かさないままに、その下にもう一本のメロディを作ると言うことになるワケなので、結局音域の操作が問題になります。
普通のフルートにしては、かなり低めな音も出てくるので、おそらく同じフルート族でもアルトフルートくらいが必要になると思いましたが、いまいちメジャーなイメージではないため、変更して元のフルートの声部をヴァイオリン、今回付加した声部をヴィオラとして録音してみています。
前回伴奏楽器はピアノの音色だったので、今回はそれに変えてチェンバロを鳴らしてみました。
なお、これらの曲の演奏はすべてバーチャルで、使用した作曲ソフトはおなじみ「スコアメーカー(Platinum)河合楽器」になります。
2008年に訪れた新座市内の様子を写真に
さてそういうわけで。
私にとってはこの「春風」と切っては切れないつながりを持っている、そう言って良いような東京・練馬区大泉学園郊外、そしてそこに隣接している新座市を再訪したのは、ずいぶん年月が経ちます。
東京の大泉学園とか保谷市(今は合併して西東京市)、そして新座市に住んでいた頃から数えて5年くらい経っていますね。
ですがこの間、やっぱり過去、大学生時代に大泉学園や隣接する新座市を散策するのが自分にとって非常に楽しみだったので、2008年に再訪したときには感慨ひとしおというとこです。
東京郊外・新座散策の魅力とは
ただ、多くの方たちはおそらくこういう東京の郊外に、なんでそんな魅力を感じてしまうのかぎもんがあるかも知れません。
このあたりは個人差もあったり、ケースバイケースになると思います。
それから、以前の「春風」ページでもお伝えしたとおりですが、一つにはやはり私の生まれ住んでいた実家の環境というのが、そういうのどかな場所でもあったから、それがオーバーラップして一種の「疑似体験」を望むようになったとも思います。
東京の都心もそうですが、都心からちょっと離れたベッドタウンなどに住まわれている方たちももしかしたらご経験があるかも知れませんが、東京などの超都会などにおける住宅の密集地域に住んでいると、けっこう気持ち的に息苦しい思いをしながら住み続けているのではないでしょうか?
「天沼マーケット」より先は、市場坂橋を渡って新座市の平林寺の横を通り、JR武蔵野線「新座駅」を超えて、さらにその先の柳瀬川、鶴瀬や上福岡市に行くのがお決まりルートでした。
とりわけ私のような、田舎からぽっと出で学生生活とかを営んでいる方たちは、若い分それだけ感受性も豊かだろうと思いますから、そういう息苦しい生活の毎日が余計ストレスではないかと思います。
だから、結局そういう都会に住んでいながらも、ちょっと手間暇をかけずにすぐに元住んでいたのどかな風景を探すとすれば、こういう新座市とか所沢市、上福岡市や与野市、そして鴻巣市などなど、あるいたり、あるいは自転車でもすぐ行ける近郊を目指して息抜きをしようとするのが良いのかも知れません。
もちろん私は練馬に長らく住んでいたので、どうしてもこういう東京の上部を目指しましたが、逆に神奈川よりに住まいの方だったら鶴川街道などから多摩川を渡ってよみうりランド方面に抜けたり、あるいは高尾山あたりにまで足を伸ばすのもありかと思います。
そこでは住宅が建て込んでしまっていて、息苦しささえ感じるような毎日だったので、その分この天沼マーケット方面とか朝霞市、新座市を歩き回るのがずいぶん楽しみになっていました。
朝霞市にも1年ほど住んでいたことがありますが、大体はその横の新座市を目指して歩くことが多かったです。
朝霞市は東上線が都心の池袋と直通しているためなのか、なんとなく雰囲気的に新座市の方が田園的な感じでしたね。
新座の農家の庭先には山羊などがいましたし♪
天沼マーケット方面から市場坂橋を渡ると、橋も含めて前後の道路は下り坂になっています。
今も同様ですが、この市場坂橋は旧道と新道があって、新道が正式な車道となっていて、旧道は双方向合計二車線分がまるごと歩道になっています。
20代に散歩に来た頃は、新道がまだなくて旧道だけでした。今の新道は写真の通り吊り橋上になっていて立派ですが、旧道は手すりがガードレールになっていて、舗装や路上の白線もりもかなり古めかしくなっています。
ところでこの市場坂橋、上の写真のキャプションでも説明しましたがいわゆる「心霊スポット」らしく、ネット上ではそれらしいブログ案内もよく見かけます。
そのためでしょうか、2008年に再度ここを訪れた時、橋本の地蔵堂の石段に腰掛けてコンビニおにぎりを食べましたが、なんだか背中がヘンに薄ら寒いというか、不安を催すような気配を感じました。
20台の頃はそんな知識もなかったので、気楽に地蔵堂を通り過ごしていましたが♪
ボツボツと畑地が広がってきます。
大体は20代の頃と景観が変わっていませんが、それでも住宅や建物などを見ると、やはり年月の経過は感じさせられます。
森とか田畑はあまり変化はありませんし、新座市役所の前に展開する平林寺の広い敷地も往年のままですが、細かな区画整理がされたところがあったり、以前は未舗装の小径が立派な舗装道路になったりしたみたいなところもあるようです。
市場坂橋などは、20代の頃は今の旧道しかありませんでしたし、以前と比べて幹線道路の往来などもなんとなく気ぜわしいような感じがしますね。
新座市、というか、その近郊の風景が特に印象深かったのは、やはり関東平野ですね。
広々した平地が彼方まで続いているという印象があります。
もちろんそれでも、坂があり台地があり窪地があり、起伏こそありますが、小高い山すら見当たらず、それが自分の自宅の周囲の風景とは異なっている、ということです。
新座も東京のベッドタウンで、幹線道路に行けば喧噪こそありますが、広々としています。
その分、自宅にいるよりも気持ちよく呼吸できる感じがして、気分が和みました。
付け加えるとこのあたりはいわゆる「武蔵野」で、ここ以外の地方などではちょっと味わえない風情もあります。
アパート住まいはきつかった?新座の田園が救いの場所に
大学に上がると、最初に住んでいたのが練馬区の南大泉とか東大泉だったのですが、当時は住宅が畑地に押し寄せる、いわゆる「スプロール化」現象がちょうど佳境になっていたような頃だったと思います。
今でこそ西武池袋線は確か大泉学園駅あたりまで高架を走っていますが、当時は池袋駅から始まって全部地上を走っていました。
そのため、とどのつまりは石神井公園駅あたりまで、当時はものすごい住宅密集地を抜けるようにして線路が走っていて、住宅の海が線路の際まで押し寄せていました。
そういう情景、今でも他の私鉄沿線でも見られることが多いですが、田舎からぽっと出の自分などはそういう光景を車窓から初めて見たときには素直に「すごい」と感じたものです。
ですがそういう都会の生活というのは、やはり下宿先にも同じような状況があるわけで、今でもそうですが、とにかく私にとってはアパート暮らしというのがなかなかなじめず、大変に気苦労も多くありました。
なんというか、「壁一つ隔てて向こうには全くの素性も知らない他人が生活している」というのが一番のカルチャーショックのようなもので、だからものすごく気分的にも息苦しさを覚えていたものです。
そういう自分にとっては、それこそ歩いてⅠ時間くらいはたっぷりかかったのですが、南大泉や東大泉の下宿先から出発して、新座の田園地帯へ抜けて行くのが大きな清涼剤になっていました。
端から見ると本当にそこは何の変哲もない、特に日中は人の気配すらしない、殺風景な赤土の畑が広がっているだけなのですが、広々とした畑地の中を歩けば、それまでの息苦しいアパート住まいから一転して、何の気兼ねもなく思いっきり息を吸って吐くことができる、そういう開放感にたっぷり浸ることができました。
上の道もよく通りました。大学生時代の当時も同じような簡素な舗装はされていたと思いますが、少し住宅街の間を抜けると広々と畑地が広がっています。
下の写真はその風景。
この写真も2008年当時ですので、もしかしたら今はやっぱり畑地が住宅に変わっているのかも知れませんね。
機会があればまた訪れてみたいと思います。
その先は私が「トトロのトンネル」と名付けた林を抜ける道に通じますが、その道は以前の「春風」ページのセピア写真でもアップしています。
その「トトロのトンネル」というのが下の写真になります。
このあたりは細かい道が入り組んでいくつかあり、ちょっと道筋を間違うと全く別なところに行き着いてしまいます。
この「トトロのトンネル」は、たしかこの手前に幼稚園があり、それが目印になっていたと記憶していますが、上の横道さえわかれば後は一本道だったとも思います。
本当に何の変哲もない、ただの農道のような道なのですが、当時はここを歩くだけで楽しかったですね。
銀塩コンパクトカメラの良さをあえて言ってみればこんな風?
そういうわけで、今日のようにデジカメ全盛の時代とは違い、大学生時代の頃は銀塩フィルムのコンパクトカメラが主流だったこともあり、写真一枚一枚がかなり高価でした。
思い出すと、あの頃は確か36枚撮りで銀塩フィルム一巻きが最も一巻きあたりの枚数が多く、それが大体5本くらいパッケージ化されたものがスーパーや家電量販店そしてホームセンターなどで千円弱くらいで売られていたと記憶します。
ですが今のデジカメになったら、一枚写真を撮るにしてもお金がかかることがないも同然なので、気安く撮れますし、逆に当時の場合には、今のように手当たり次第にパシャパシャ写真を撮るなどということがとんでもなかったと思います。
以前アップした「春風」ページに利用してみた3枚の写真の他にも当時の写真はもちろんあるわけですが、それでも枚数は今と比べてかなり控えめでした。
この「トトロのトンネル」は、先にある幹線道路に抜ける間道のようなもので、雑木林の中を通り抜けるような感じです。
このあたりはいつ歩いても人気がなく、ある意味「人だらけ」の大泉の下宿先から最も解放される気持ちになりました。
そして、お決まりコースでしたがこの幹線道路は上り坂になっていて、その上り坂の終わりに右折する道路があります。
そして、ほぼ間違いなくわたしはその右折する道路を歩いたものでした。
右手にはクヌギかなにかの雑木林が広がり、右手には畑地が茫漠としてあって、本当にのどかな風景です。
ただ、今となってはおそらくそういう雑木林も畑地も住宅密集地になっているのではないかと思います。
あれ以来行ったことがありませんが、それが時勢ではないかな、と感じます。
で、ちょっと先に(JR新座駅or平林寺方面)に行くと、市街地になって、「木漏れ日通り」という道に出逢います。その付近で見かけたケーキ屋さんの店先には、上のようなベンチが置かれていました。
ちなみに、このベンチの写真はこのブログの「前奏曲変ホ長調」という自作曲紹介のページにも紹介されています。
そして、下の写真がその「木漏れ日通り」の案内書きですね♪
そして下の写真が新座市役所。
これが2008年の写真ですが、ネット上で見ると今も全く同じ建物です。
他にもこの付近には、徳川家光の時代に松平伊豆守信綱が造設したといわれる野火止用水が今でもあって、何げに歴史散歩も楽しめるようですね。
市役所前の幹線道路にも、向かいに平林寺があることもあってか、風情な日本料理屋(確かそば屋さん?)があって、ちょっと入りたいと思ったこともありましたが、なんだかチャンスを逃しました。
今のデジカメは、異なるデジカメの機種同士でこそ画像の質の比較はよくネット上でも見かけますが、「春風」ページに載せている銀塩コンパクトカメラの画質に比べれば桁違いに優秀です。
ホントに良い時代になったと思います。
で、そういう実情に対して、あえてムカシの銀塩コンパクトカメラの良さを考えてみると、どんなことがあったか?
確かに一枚一枚を対象にしてみれば、高くはないにせよ今のデジカメと比較すれば、ハッキリお金がかかるし、フィルムもかさばります。
そして何より、現像焼き付けする段になると必ず写真屋に持ち込んで、これまたその代金がかかってくるわけです。
だからゼッタイに今のデジカメにはかないっこないのですが、それでも一点だけは、こういうメリットがあるかも知れません。
それは、
「そういう貴重なフィルムで写すので、しっかりと被写体を選ぼうとする意思もできてくるし、その分写した写真自体に愛着がわく」
ということ、つまり気持ち的な部分で写真に対する感じ方、とらえ方が違ってくるように感じます。
このコンパクトカメラを、そのフィルム何巻かと一緒に自転車のバッグに積み込んで、私が千葉県から沖縄まで、陸路を伝って自転車旅行をしたのが30台半ばのことでした。
その際に道中で確か400枚にものぼる写真を撮りましたが、そのどれもがいまだに現在、コンデジに不自由しないとはいえ、それで撮りまくった何千枚もの写真よりもよりいっそう印象深くあるのはなんとも面白いですね。