洋紀Hiromichiの部屋

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創作音楽用語6⃣「村田蔵六」

えー、歴史散歩ではありません。
でも、村田蔵六って、なんだか日本史、それも幕末史に出てきた有名人の名前だったような気が?

はっきり言って、それは気のせい。そうお考えください。笑

「でも、そんなこと言ったって確かに村田蔵六って歴史に出てくるじゃん?」
「なのに何でまた、音楽の話にこんな日本人の名前がでてくるわけ?」

おっしゃることは至極ごもっともです。
歴女をはじめとして、歴史に詳しい方だったら無理ない疑問かと。

けれどもこれが、私の中で何と立派に創作音楽用語として生きています!不思議なことに、村田蔵六さんの名前がちゃんと音楽に出てくるんですよ!笑

それをちょっとお伝えしましょう。

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村田蔵六は大村益次郎という偉い人

でも、せっかくだから村田蔵六さんの話をちょっと進めてみます。

蔵六さんはとにかく偉い人です!

東京千代田区・九段の靖国神社では境内に堂々とした直立像が建てられているんですが、私もちょいちょい靖国神社にはお参りしています。
とにかくこの靖国神社というのは日本を近代国家へと建国し、そしてそのために命を犠牲にした人たちがたくさん奉られています。

村田蔵六
靖国神社の村田蔵六さん。

境内で威風堂々ですなあW

ざっくり言ってしまうと、村田蔵六(後に大村益次郎と改名)さんは、この靖国神社の「生みの親」。
靖国神社の前身となった「招魂社」を建立した人なんですね。

幕末、蔵六さんは故郷の長州藩つまり今の山口県の片田舎、鋳銭司(すぜんじ)村で産湯をつかっています。
ナナナンと、かの勝海舟が生まれた次の年、1823年に生まれてるんですね!

父が村医者だったことからか、幼い頃から向学心が篤かったようで、青年期になるとシーボルトの弟子だった梅田幽斎から蘭学を、咸宜園塾の広瀬淡窓から漢学などを学んだ後は、当時の日本国内で最高の学府だったとされる大阪・適々斎塾(適塾)に進んで、そこの塾頭にまで上り詰めました。

生まれついての天才児だった、というべきでしょう。

伊予といえばやっぱりミカン「伊予柑」。確か真珠の養殖もやってるんですよね♫・・・音楽のハナシからずいぶんワープしている気がしますが、全部「気のせい」です爆

当時の適塾はそんなわけで多士済々で、福沢諭吉や橋本左内、そして何と、かの漫画家・手塚治虫氏の先祖に当たる手塚良仙さん(手塚治虫「日だまりの樹」の主人公)とも一緒になっています。

その後いったん故郷の鋳銭司村に帰って父の家業の手伝いをしていましたが、折しも当時はペリーの黒船来航によって国内は大混乱状態。
これを受けて1853年(嘉永6年)、彼の才能に目をつけた宇和島藩藩主・伊達宗城公の要請を受けて伊予の伊達藩に仕官します。

この頃、司馬遼太郎「花神」にもありますが、蔵六さんは樺崎(かばさき)砲台という、当時最新式の砲台を建造したり、ご当地の提灯張り職人だった嘉蔵という人とコンビを組んで蒸気船の建造に成功しています。
そして同時期、かのシーボルトのご息女に当たる椎本イネさんとも出会い、彼女に蘭学などを手ほどきしています。

その後1856年には、藩主・宗城公の参勤交代に付き従って江戸、つまり今の東京に入り、麹町に「鳩居堂(きゅうきょどう)」という私塾を開設。そしてその後程なくして、江戸幕府から蛮書取調(ばんしょとりしらべ)教授方手伝を命ぜられます。

そしてここで杉田成卿(すぎたせいけい:「解体新書」で有名な杉田玄白の孫)、箕作阮甫(みつくりげんぽ:蘭方医で蘭学者)川本幸民(ビールを日本で初めて造った人)など当時、日本最高水準の錚々(そうそう)たる学者たちと交流を持つこととなりました。
手塚良仙さんの父・手塚光照氏ともここで顔を合わせているようです。

なお、直接の関係はないようですが、現在も書画用品などの販売をしている老舗で、同名の「鳩居堂」がありますね。

豆腐が大好きだったという蔵六さんです。私も湯豆腐、冷や奴はよく食べます笑。蔵六さんにちなんで、お国の山口県で「蔵六豆腐」とか、「豆腐の蔵六くん」とか名付けて豆腐を名産で売り出したらどうでしょう?それとももう売っていたりするんでしょうか?爆

                                                   

あまりに長くなるので、話を飛ばして。

この蛮書取調に奉公している頃、同郷の桂小五郎と知り合い、請われて郷里・長州藩の軍事戦略の要となりました。
1860年代のことです。
このころ、村田蔵六さんは大村益次郎と改名しています。

その後の長州征伐(第二次)、戊辰戦争では指揮官として活躍。
有名な上野・寛永寺の闘い(1868)では蔵六さんの持ち出したアームストロング砲であっという間に幕軍・彰義隊を壊滅状態にしています。

明治維新の後は国民皆兵の思想とともに、教科書にも載っている徴兵制を国内に敷いた(構想は蔵六さん、実際に実施を実現した(1873年「徴兵令施行」)のは同郷の山県有朋さんとされる)立役者となりましたが、悲しいことに最後には、彼の急激な兵制改革を憎む旧守派らに暗殺されています(1869京都)。

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村田蔵六は近代日本の発展に大きな貢献を

さてさて、ずいぶん村田蔵六こと大村益次郎さんのハナシで、強引に引っ張って盛り上げてしまいました。

そんなわけで、村田蔵六さんは、最後こそ悲劇的な事件によって人生の幕を閉じてしまいましたが、その功績は国民皆兵や富国強兵への道を開き、後に日本が列強と並ぶ近代国家へと成長していく、その過程で華々しく貢献しています。

その一方で、靖国神社につながる招魂社の建立を建言したなど、お国のために命を捧げてきた人たちに対しては大変に深い配慮を示してきていた、と言えると思います。

7月の「みたままつり」にいつも行こうとしています。けれども「暑くてかなわない」「遠いから行き帰りが大変」「日にちを間違えた」など、思いとミスが交錯してどうにも縁がありません。今度行ったらキーホルダー買って、焼きそば食べたいです。暑いときは焼きそばですね♪笑

そして。

果たしてこの村田蔵六さんが、いったいどうやって創作音楽用語とか、音楽の話に結びつくのか?
第一、蔵六さんの生涯については近代史の一コマでもあるため、とても細かく追跡されたりしているはずなのですが、その中にあまり音楽と関連した事跡を彼自身がとどめている、などという話は全然聞いたこともないのです。

これがまた面白いところですね。
言ってみれば村田蔵六さんというのは、兵学や医学、オランダ語(後には英語も)を徹底的にマスターしていたという意味からも、根っからの「純理系人間」というべきでしょう。

そして、そういう方面の学問的探求の結果からなのか、彼の性格自体にも大きく反映されているようで、そうした逸話は数多く上がっています。

こういうエピソードを見る限りでも、全然音楽とかけ離れたところに彼はいるに違いない。
誰もがそう思うはずなのです。

増六和音について

というわけで、いや〜長々とハナシを引っ張ってしまいまして恐縮至極であります。
返す返すも閲覧されている方々には申し訳なく思います。
増六(「蔵六」の変換ミス:面白いからこのままにしときます♫)さんの話がつい面白いので、ここまで盛ってしまいましたすみません。

さて、それではここで村田蔵六さんがどうやって創作音楽用語と結びつくのか?
それを語りましょう。

まず最初の手順として、「村田蔵六」の「蔵六」ですが、これを「増六」に直します。

そこで「増六」といえば?
も、もちろん和声学で言うところの「増六和音」。
借用和音(他調から借りてきた和音)の一種であり、いわゆる「ドッペル和音(音階ⅴ度を主音とする他調の属和音)」と呼ばれる和音群の一種です。

【3,850円/島岡 譲 (著)/Iでは主に一定の調内でカデンツの原理をD和音を中心に扱ったが、IIは借用和音・変化和音およびソプラノ課題を扱うものである。】

そして、「増六和音」というのは、上記の借用和音の一種たるドッペル和音について、その構成音のうち、第5音を半音下方に変化させ、それを下方へ2度限定進行させて解決させるべき「限定進行音」とした和音です。

譜面で表すと、次のようなものが増六和音になります。

譜面と音符(和音記号は「音友和声」より) 名称
フランスの六
イタリアの六
ドイツの六 ドイツの六

ごらんのようにそれぞれ楽しい(?)ニックネームがついていて、覚えやすいのも特徴です。

これらを総称して「増六和音」と言いますが、この「増六」という名称の由来は、これらの和音が持つ二つの特徴音、つまり第3音(上表、ハ短(長)調なら「♯ファ」)と、半音下方に変化した第5音(同じく「♭ラ」)をとらえているためです。

この二つの音のうち、第5音を上に、第3音を下に置くと、二つの音の音程は増六度になります。
増六度音程
これにより「増六和音」という名称ができあがります。

「増六和音」を用いてモーツァルトが使った「連続五度」とは

「増六和音」はそういうわけで、けっこう複雑な和音表記をはらんでいるといえます。

ところが、この増六和音のうち、実はあのモーツァルトが使っていたものがあって、しかもそれによって和声学、というか音楽理論上で「禁じ手」といえる「連続五度(平行五度)」を彼が用いていた、というものがあります。

それが実は、上の表で言う「ドイツの六」という増六和音で、これをモーツアルトは、下の譜面のようにして、連続五度をお構いなしに用いていたと言います。
モーツアルトの連続五度
こうした背景を受けて、この連続五度の場合、上の譜例でもおわかりのように、テノールとバスとの間にできる連続五度に限り、使用を許している和声学テキストもあります。
「音友和声」はありませんが、たとえば「音楽の理論と実習」(島岡謙,音友社)、「デュボア『和声学』」(音友社)がそうですね。
(なお、これらはともに絶版)

なぜモーツァルトはこの連続五度を許していたのか?

そこでまたちょっと話が飛びますが。

こういう名高いテキストで、なぜこの連続五度が許される、としていたのか?

私見としてですが、テノールとバスとの間だったら、他の声部間よりも連続五度が目立たないというハナシもあると思いますし、だからこういうテキスト上でも許されている、ということになると思います。

そしてまた、かの神童・モーツァルトも自分の曲の中で使っていた、という理由もあるにちがいないのです。

じゃあ、
なぜ、モーツアルトはこの連続五度を許したのか?
なぜモーツアルト自身が、この連続五度を実際に曲で使えると判断して、用いていたのか?
これがけっこう疑問に感じるのではないでしょうか?

この連続五度が、そう言われてみればやっぱり柔和で違和感なくきこえるから?
とか、要するに
音楽的によい効果を生んでいて、それが連続五度というマイナスを十分に補ってあまりあるから?
ということなんでしょうか。

じゃあ、なぜ連続五度ができていながら、そのように(つまりガチで連続5度さえ許せるくらいに)まれにも見るような良い音楽効果を生んでいるのか?

村田蔵六さんと増六和音との結びつきをお伝えする前に、まずもってこの疑問を、このページでは真っ向からとらえて考えていきたいと思います。

少なくとも私の見る限りでは、これを詳細に論じているテキストとか理論書はどうやらないようです。
だから、この記事では初の試みとなりますが、独断偏見かまわず、私自身の持論を展開していきますね。

繰り返しますが「歴史上、モーツアルトのような希有(けう)な作曲家が使用したのだから、私たちも使ってかまわない」、といってしまえばそれまでです。
ですがそう割り切る前に、この原因をちょっと真剣に考えてみたいと思うのです。

そうすると、実は衝撃の事実(というほどでもないですが笑)が、この和音の背後に見え隠れしているのですね。

次のようなハナシになります。

衝撃の事実!?ドイツの六は、実は〇〇だった!

なんだか芸能スキャンダル記事みたいなサブタイトルになりましたが笑

要するに、モーツアルトがかまわず利用していたという、増六和音にまつわる連続五度は、
これなら許してもいーじゃん!
と彼が考えたからに他なりません。

じゃあなぜ彼、モーツアルトがそんな風に考えたのか?
そのからくりが、実は他の増六和音を差し置いて、ドイツの六にだけ浮かび上がる事実があったのです。

私の所有している【和声Ⅱ-理論と実習】。Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの三冊中では一番痛んでいないようですW

繰り返しますが、ドイツの六という増六和音は、以下のような構成音から成り立ちます。
ドイツの増六2

これを、もういちどよ~く見てみましょう。
すると、この和音は、実のところ下の和音と全く同じ音の構成だと気づくのではないでしょうか!
ナポリ調の属和音
要するに、ドイツの六の和音構成音のいくつかを、別な音の表示に変えてみればあら不思議!
ナンのことはない、単なる他の調の属七和音なのです。

具体的には、いわゆる「ナポリ調」、つまり短調にあって、音階第2音(ⅱ)を半音低めた音、つまり元の調(=主調)がハ短調であれば、上の譜面のようにその半音上の調であるDes durつまり「変ニ長調」の属七和音になってしまうのです。

【3,850円/島岡 譲 (著)/Iでは主に一定の調内でカデンツの原理をD和音を中心に扱ったが、IIは借用和音・変化和音およびソプラノ課題を扱うものである。】

ナポリ調とは?近親調ではないけれど副次調(近親調)扱い

なお、このナポリ調というのは長調であり、かつまた上のように音階上の音をそのままの高さで用いて主音としていないので、いわゆる近親調とか関係調とかではありません。

だから、元の主調に対してけっこう遠い調、ということができます。
ですが、このナポリ調に関しては例外的に、近親調と同じ扱いをして良い、というお達しが和声学テキストではあります。
(参照:「和声Ⅲ 理論と実習 p.61下[18]~」)

なぜこんな配慮があるのか?
といえば、一つには短調の特質があります。

短調では長調と違い、音階ⅱ上の近親調というのがありません。
なぜなら自然短音階をベースにして、各音度を主音となす近親調(=関係調)を考えた場合、たとえばハ短調では音階上の「ニ」、つまり音階ⅱ上の三和音作ろうとしても不可能だからです。

なぜなら、短調ではⅱ上の三和音が根音と第五音との間が完全五度ではなく三全音、つまり減五度を作ってしまうからです。

ハ短調でⅱ上の三和音を見てみると、D、FそしてAsの三つの音が必要ですが、このうち主音となるD(ⅱ)と第5音となるAs(ⅵ)とは減五度の音程になってしまいます。
音階上の主和音たる資格を有するには、この主音、第5音とが必ず完全五度である必要がありますが、短調ではこれができないワケですね。

ナポリ調は人工的な近親調

そこでムカシの人は考えました。

減五度に半音足せば完全五度になるじゃん!?
じゃあⅱを半音下げるか、ⅵを半音上げるかして強引に調を作ってしまおう!
ということになりました。

そこで、前者の「ⅱを半音下げる」という、人工的な操作を施してこしらえた調が、ナポリ調ということです。
(ちなみに、後者の「ⅵを半音上げる」ことでできた調は「ドリアの二度調」とでも言うべきものになります。あくまでも私の造語なんですが、結局半音上げた音階ⅵ度というのはよく「ドリアの六度」と言われているわけですので)

ただ、こういう複雑な経緯もあって難しいのですが、繰り返しますが「短調では他に手頃なⅱ上の近親調がない」という事実から、このナポリ調を近親調扱いして、書法上や規則上でもそのように扱っているようですね。

(なお、音友和声「和声Ⅲ 理論と実習」p.13では「注2」に「副次調は近親調と同じ」という下りがありますが、紛らわしいのでこの記事では近親調というワードだけ使っています)

要するに、元の主調よりも半音上の調(長調)の属七和音。
しかもその基本位置。
転回なしの、素のままの属七和音なんですね。
ナポリ調の生成
ちなみに、この属七和音はその和音構成音が「音友和声」でいう「b」、つまり四つの構成音が全部出そろったものになりますね。
(参照:「和声Ⅰ 理論と実習」p.70[41])

【私見】転調の唐突性と(基本位置)属和音による調の安定性が連続五度の許容に寄与!?

そういうわけで、ハナシを連続五度に戻しますが。

つまりドイツの六というのは、見かけこそ複雑怪奇な和音記号で、ごっつい構成音の表示になっていますが、表示をちょこっと変えればこのように、あっさりと簡単に書き換えて考えることができてしまいます。
ナポリ調属和音

ところが、ナポリ調というのは主調と半音の差がある調ということで、実のところ他の近親調に比べればやっぱりずいぶん遠い調という印象はあるわけです。

そこで、以下は私の持論なのですが、このドイツの六⇒Ⅴにおける連続五度を許容している根拠として二つほどあげられます。

まず一つ目には、本来的にはそもそも近親調はおろか、その同主調(つまり準副次調ー「和声Ⅲ 理論と実習」p.14)「ドイツの六」)でもないわけです。
だからこのナポリ調への転調に当たっては、かなり唐突さが現れます。

そしてもう一つ。
このナポリ調の基本位置、つまり転回なき属七和音こそが「ドイツの六」というわけですが、転回位置でない属七和音というのは、一つの和音だけについて考えた場合、転調に際しては最も強固な調の確立を目指します。

つまり、属七和音は、とりわけ転回位置を取らずに基本位置で使うと、その和音一個だけで強力にその調を主張する、ということです。

※なお、ちょっと外れますがクラシックの和声学を学習すると、「属七」を習うと、その次に「属九」、つまり属七和音に第九音を加えた和音が現れます。

実のところこの属九こそが最も「一個の和音でその所属する調を明示する」と考えられます。
その理由は、属九の和音であれば、その調が何であるか、完全に確立してしまうからです。

ただ、これも私見ですが、属九は属七と比較して、
➀不協和性がより高くなること(特に短調では、根音と第九音が短九度になってしまう)、

➁属七は、属九ほど調の確立は強くないものの、結局その後に来るトニック和音(Ⅰなど)が、短調(短三和音)か長調(長三和音)かの違いでしかありません。つまり、短調長調の「旋法」の判別の曖昧さのみが残るだけです。

➂ついでに申し上げますと、結局音楽史上、これらの特徴があったためもあってか、正式に有名な作曲家によって属九が用いられ始めたのは、ロマン派のシューマンからだ、というハナシですね。
確かにバロック後期、バッハですら用いた形跡があるとは言え、それこそ「非和声音によりできあがった第九音を、次に解決させている」という手法をとっていて、一個の独立した和音ととらえてはいなかったようです(例:『オルガンのための前奏曲とフーガ ホ短調』の冒頭部分など)。

など、諸般の事情を見ると、やっぱり上の理屈上では、属七に肩入れしておきたいと思います。

その和音の属性を最も強く表現するのが基本位置であり、一方減七和音や他の複数の和音の羅列による転調に比べて、属七和音というのは一個の和音でより強固に転調を表現する、と考えるからですね。

この唐突さ、そして転調への強固さが、この「ドイツの六」とそこに続くⅤ和音との間にできる連続五度の悪印象を減殺し、緩和してしまっている、と考えられると思うのです。

あと、モーツアルトなどはポリフォニックな書法の権威であるバッハと比較すれば、より「旋律プラス伴奏」というホモフォニックな書法でもあったため、どこまでも厳格な多声の書法、つまり各声部の独立性をより強力に追い求める書法ではなく、その必要もなかった、と言えるのかも知れません。
そうした背景から、実作上ではこういう風にもできるぞ、というタテマエになったと言えると思います。

こんなところでしょうか。
ここまでが、私の私見として、モーツアルトが「ドイツの六」における連続五度を許した根拠になります。

「モーツアルトの連続五度」はこうして「村田蔵六」に!?

さてさて、いや~本当に長く引っ張ってしまいましたが、ここでやっと村田蔵六さん、そして「モーツアルトの連続五度」の関連にやっと戻ります。

なぜ「モーツアルトの連続五度」が「村田蔵六」なのか?

じ・つ・は!
あっという間に説明が終わります。
そして、ゼッタイに納得できると思います。

まず、「モーツアルトの連続五度」を「モーツアルトの増六」に直しましょう。
そして、何気に下をご覧ください・・・
村田蔵六
ハイ説明終わりました!爆

なんと感動的な締めになったことか‼
ここまで前振りで内容を引っ張り回したブログもマレではないでしょうか?
うーむ、なんだか背筋が寒くなるような気が爆
ひらにひらにご容赦ください。

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