洋紀Hiromichiの部屋

洋紀Hiromichiの部屋は、自作曲と和声など音楽通信講座、そして英語のサイトです。

音楽のアタマー勝手にアタマの中で鳴っては消えていく

作曲の作業などをし始めてしばらくすると頭の中ではその音楽がしょっちゅう鳴り始めるようになります。現実には全然音が鳴っていないのですが、頭の中で自然に出てくる、わいてくる音。
というか音楽ですね。

不完全な者もあれば、まれにはけっこう完璧に音楽として聞こえてくるものもあります。
また、何の気なしに頭の中で鳴っていた(というか、鳴らしていた)音楽が、記憶する前に忘れて消えて行ってしまったりします。

これが私の言う「音楽のアタマ」というわけです。

作曲の作業も高じれば、時にはそれが強迫観念的にひっきりなしの連続状態で現れます。
そうなってしまうと作曲以外の他の作業、特に複雑で込み入った事柄を手掛けるのには不都合で困ってしまいますね。

この「音楽のアタマ」について、いろいろお伝えしてみたいと思います。

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英語の試験一週間前は「音楽のアタマ」を消していた!

で、たとえば以前にTOEICの試験を毎回のように受けていた時期があります。
でも、その試験前の一週間くらいはこうした弊害を嫌って、作曲の作業を中断することにしていたものでした。
音
ですが普段の時であっても、曲を作る作業を進める中でそのようにしょっちゅう音楽が頭に残るようになります。
そうなると、音楽の善し悪しに限らず、曲自体、もしくは頭に描いた音のイメージ自体の持つ感情表現にいつの間にか感化されてしまうようです。

曲を作るときにも明るいイメージの方が作りやすい?暗い、悲壮なイメージの作曲は必ず何かのブレーキが

つまりもの悲しい曲が脳裏に留まっている最中は気分的にもやっぱり陰鬱なムード、時には不快感があったり、その逆に明るくてダイナミックな曲想ならば気持ちもなんだかウキウキした感情を持てるようになるようですね。

だから、精神衛生上はもちろん後者のような曲想の曲を作っているときが好ましいと言えるはずです。

その結果、あくまでも持論の域ですが、そうした明るい音楽を聞いていくことによって、自身の心も明るく快活で、積極的な気分でいられれば、それこそが本来的な音楽の『使命』みたいなものになると思えます。

そして、それは単に聞く行為にとどまりません。
私の経験則から判断しますが、悲壮な曲を作るときには何かしら、えもいわれぬ「逆の力」が働いて、作曲作業が進めづらくなる感触を覚えます。

一種のブレーキというのでしょうか、もの悲しかったり悲壮なイメージの曲を作ろうとすると、明るい曲を作るときと比較して何かしらの歯止めがかかってくるのです。

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短調の作曲へのブレーキは生理現象?「くるみ込み型」の作曲でイメージを明るく

確かに作ったり聞いたりする分にはそういう曲の方が好ましいに違いないでしょうから、私自身の曲についてはだいたいそのような曲想を持つ音楽を作曲しようと意識している面があります。
自分の経験則であっても、悲しい曲とか荒びた短調の曲、悲劇的な曲などは気持ち的にも大変です。

また、面白い反応ですが、そういう曲を作ろうして頑張って作曲の作業に取りかかっても、なんとはなしに頭や手がなかなか進みにくいみたいです。

言ってみれば何か想念のレベルの領域に、一種の“壁”のようなモノができて、それが作曲の作業を阻んでしまうような感じ。
そういうふうに表現できるかもしれません。

あるいは、心身が自然にそういう歯止めをかけて、健全な状態に維持しようという現れなのかも知れませんが、そういう生理学的・科学的な方面は明るくないので、これまでとします。

だから、以前運営していた自作曲サイト『丘の上の小径』でアップしていた曲をはじめとして、こちらのブログで紹介していいる曲西てっも、私の曲には主調として短調を持つものが極端に少ないのです。
というか今のところはこのブログ上で主調が短調の曲というのはゼロにしています。

ですが、もちろん曲の流れの上からは短調へト調が代わることは必須の要件になる場合も出るので全く使わないわけには行きません。

ただしそのように短調を使う場合には、それに勝る音楽内容の長調でそれをくるみ込むようにしている、というわけです。

果たして作り上げた曲がそのような思惑通りになっているかどうかはムズカシイところですが、そのようなスタンスを持って今後も作曲はして行きたいと思っています。

「あの人」もやっぱり同じ?音楽のアタマは音楽好きな人には珍しくないかも

それから、この「音楽のアタマ」という現象は、こうしてブログ記事に書いてみると、さも私自身にだけ起こっている特異な現象のように見えてしまったりしますが、どうやらそうではなさそうです。

たとえば、音楽でなくて美術方面で活躍している人たちについて言えば、おそらくですが同じように脳裏で何かのイメージが自然とわいたり、それらを駆使して作品を作り上げるということも十分に連想できます。

そしてもっと行ってしまえば、そういうふうに、ある得意な分野とか好きなジャンルを持っている人たちというのは、それらを脳裏でカンタンにイメージ化できたり、作り上げるのが上手いことが多い、と言えるのかも知れません。

もちろん音楽について言えば、歴史に名だたる作曲家、演奏家たちがそうだったと思いますし、また単なる趣味程度に留めている人の中にも、そうやって「音楽のアタマ」をつくっている人もいるようです。

たとえば、将棋界の永世名人である中原誠さん。
以前、新聞(?)の将棋関連の記事で見かけたことがありましたが、中原さんはけっこうマーラーが好きで、交響曲をよく聞くという趣味があったそうです。
そして、将棋の対局中などでも聴いた曲が頭の中で鳴っていたりした経験がある、という内容を読んだことがありました。

将棋界の天才と、私ごときを比べることなど笑止千万なのですが、でもこういう風にして好きな者を見たり聞いたりしたときには、それが脳裏に残ることがある、そしてそれを作為無作為に思い出すことだってあり得る。
そういうものではないかと思うのです。
(旧サイト「hiromichiの部屋」より移植・修正)

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